(代筆日記/神藏美子)
スエイと自転車で、下高井戸シネマまで、「ヤコブへの手紙」を観に行った。下高井戸までは、農大通りをぬけ、経堂をめざして、経堂駅を越し、それから西願寺通りを、北上する。30分くらいだった。自転車は、便利だ。下高井戸は、世田谷線で行くにしても上町まで、歩かなくてはいけないし、車だと込み入っているし、駐車できないし、自転車で行くのが、ちょうどいい。「ヤコブへの手紙」は、とてもおもしろかった。ヤコブは、高齢の盲目の牧師で、ヤコブのところには、悩みの相談や、救いを求める人たちから、毎日、手紙が送られてくる。ヤコブは、その手紙に、丁寧に祈り、返事をし、時に、必要としている人には、自分の全財産の紙幣さへ手紙とともに送る。盲目のヤコブ牧師は、手紙を読んでくれて、返事を代筆してくれる人が、必要だ。死刑囚のレイラは、恩赦により出所して、ヤコブのところに、手紙を手伝うためにやってくる。温かく、レイラを迎えるヤコブ牧師だが、レイラは、かたくなに心を閉ざし、毎日届く手紙もめんどうくさいので、半分、井戸に投げ捨ててしまう。
ヤコブ牧師は、高潔な聖人としてだけ、描かれているわけではない。ひょんなことから、手紙が届かない日々が続くと、うろたえ、自分を、役立たずの老いぼれではないかと、不安がる一人の弱い人間としての面も見せる。「毎日、手紙が届くとおもっちゃいけないね」と、レイラに言って、反省する。ヤコブ牧師は、手紙を書き送り、悩みを打明けてくる人々を救っているようで、自分が、手紙を与えられていることで、神に、救われているのだと実感する。
どういう前後だったか、忘れてしまったけれど、ヤコブ牧師が「全財産を貧しい人々のために使いつくそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとしても、愛がなければ、わたしには何の益もない。」(コリントの信徒への手紙 一)、この聖書の箇所に触れて、「愛がなければ」ということを、しみじみと自分に、語っているシーンがあった。
高校時代に、両親が共に牧師だった、友達のSちゃんが、「愛がなければダメなのよ」と、悩んでいたのも、やはりコリントの信徒への手紙 一のこの聖書の箇所を、ひきあいに出して話していたのだ。プロテスタントの高校に入ったものの、信仰のなかったわたしには、Sちゃんの思い悩む切実な姿が、何十年経った今でも、忘れられない思い出なのだ。
こころを閉ざしていたレイラは、手紙が届かずに、意気消沈するヤコブ牧師を見かねて、自分の苦悩を、手紙が届いたふりをし、手紙を読むかのようにして、打ち明ける展開になる。救おうとする人と、救われようとする人の間に、神さまは、存在するのだろうか。そして、神さまの前には、救おうとする人、救われようとする人は、どちらも同じ存在なのかもしれない。二人の間には、愛がある。「神は、愛である」という聖句は、聖書のどこに書いてあるのだっけ。
「ヤコブへの手紙」は、フィンランド映画。原発をあつかった「100000年後の安全」もフィンランド映画だったし、フィンランド映画、クオリティー高し。
帰り道、下高井戸の商店街をぬけたあたりに、たいやき屋があって、スエイと二匹買ってパクついた。おいしかった。

たいやきに、おもわず顔がほころぶスエイであった

