(代筆日記/神藏美子)
ケセン語の聖書というのが、あるということは、友達の佐伯修さんが、震災で被害にあった大船渡市のことを、メールに書いてきた時に、教えてもらった。ケセン語の聖書を出版した、共和印刷という小さな出版社が、震災の被害にあって、出版社の社長さん夫妻が、津波で亡くなられたという話だった。佐伯さんは、出版社のご夫妻に学生時代、一寸したムックをだした時に、お世話になった縁があるそうで、とても悲しんでいた。「宮城、岩手の沿岸部にまたがる地域を「気仙地方」といいますが、そこの方言を日本語にたいして、あえて「ケセン語」と呼んでしまい、その言葉で聖書を訳したものでした」と、佐伯さんが、説明していたケセン語の聖書というのが、とても興味をそそられていたので、今日の新聞に「ケセン語聖書 津波耐えた」という見出しの記事をみつけてうれしかった。
津波にのみこまれた、出版社の倉庫からケセン語の聖書が、泥をかぶりながら、三千冊も救出されたそうだ。出版社は、「イー・ピックス」という会社のようだから、佐伯さんがご存知の社長夫妻とは、また別の会社だろうか。
ケセン語の聖書を訳した内科医の山浦玄嗣(はるつぐ)さんが、写真入りで紹介されていた。素敵な笑顔の先生だった。山浦さんのことを、ネット検索すると、山浦さんが、NHKの「こころの時代」という番組に出演された番組内容を紹介しているサイトがあった。それによると、ケセン語聖書は、単にケセン語で、聖書が書かれているだけではなく、山浦さんが、聖書をギリシャ語から直接、独自の聖書解釈にもとづいて翻訳したものだということがわかる。
たとえば、ギリシャ語では「ゾーエー アイオーニス」という言葉を、一般の聖書では、「永遠の命」と訳しているが、山浦さんは、
「私は適当な訳だとは思いません。
「命」と訳されている「ゾーエー」という言葉は、実はギリシャ語には「命」という意味も少しはあるのですが、本来は生きることなのです。「暮らす」こと「暮らし」なのです。しかもそれがただ生きるのではなく、元気である、幸せである、喜びで充ちている、ピチピチしている、こういう意味なのです。それを形容する「アイオーニス」というのを永遠と訳していますが、これも確かに「永遠」という意味がありますが、本来は時間と関係がないという意味なのです。はじめも終わりもないということは、何時(いつ)からでもいいし、何時まででもいいよ、時間と関係ないよという意味なのです。何時もなのです。」とこのように解釈している。
山浦さんは「永遠の命」とは、「時間制限のない、ほがらかで健やかな暮らし」と解釈されている。
たしかに「永遠の命」という言葉は、わかったような、わからないような、言葉だ。山浦さんのいうように「時間制限のない、ほがらかで健やかな暮らし」のほうが、意味がわかりやすい。そもそも時間というものは、人間がつくりだして、それで、人間がそれに縛られているようなものだから、はじめも終わりもない、何時(いつ)からでもいいし、何時まででもいいよ、というのは、なんて自由なことだろう。ケセン語聖書を読んでみたら、聖書がもっと理解できるところがありそうだ。とにかく、新聞に書いてあった出版社の電話番号にケセン語聖書を、注文して読んでみようと思った。
それから、今日は、頂天眼(ちょうてんがん)というデメ金を、金魚やの店先の水槽で見かけた。小さい頃、「デメ金」とアダ名されていたことがあるので、デメ金には、シンパシーがあるのか、ちょっとなごんだ。
頂天眼(ちょうてんがん)というデメ金を金魚やで、みつけた

いつも上ばかりしか見えないのかな~、上を向かなくても、目は上

