終戦記念日とはまったく関係ないですけど、本日、ペーソスの定例ライブに参加してきました。
ライブの前、島本さん、岩田さんと蕎麦を食べに行ったのですが、歩くだけで汗がだらだら出てきます。暑い中お越しいただいた3人のお客さま、ありがとうございました。
8月20日の新宿・道楽亭(03-6457-8366)のペーソス・ライブにも出ますので、よろしくお願いします。(撮影・スマイリー井原)

いま読んでいる本『完本 美空ひばり』(竹中労・著 ちくま文庫)に、1945年5月29日、米軍による横浜空襲の箇所がありました。終戦79日前のことです。
これを読んで、涙が出ました。少々長いですけど、引用しておきます。
私(竹中)は、神奈川県大船の海軍第一燃料厰に一九四四年三月から学徒動員されて、「秋水」の燃料である過酸化水素の濃縮液をつくっていた。オキシフルを煮つめて九五パーセントの濃度にし、過マンガン酸加里と急激に化合させる。その爆発で、一気に一万五〇〇〇メートル上昇して敵に体当たりするのである。海軍最後の戦闘機「秋 水」は、いわば人間を乗せたロケット弾であった。
濃縮したオキシフルは、ほんの表を木片にたらしても、めらめらと燃え上がるのだった。オキシフルの蒸気で、髪の毛は脱毛し赤茶けた。スフ(*人絹)の作業服は、一月ともたなかった。仕事はつらく、みじめで、食事も満足にあたえられなかった。二切れか三切れの芋と野草の塩汁が何カ月もつづいた。
当時、数えで一六歳の少年だった私は、音速よりも速く飛ぶという「秋水」に搭乗する、特攻隊員の心情を想った(きっと敵にぶつかる前に失神してしまうにちがいない)。それは、この世でもっとも壮絶な、そして安楽な死であるように思えた。くる日もくる日も、私は"死"ばかりを考えていたのだ。
一九四五年五月二九日、「おおいッ、すごいぞ、見てみろ」という叫びにつられて、私は工場の裏山にかけ上がった。東の空にいちめんの黒煙が、巨大な渦をまいていた。
それは、とほうもないひろがりで視界をおおい、無数の火花をまじえて、ごうごうとうなりを立ていた。B29爆撃機の編隊が七機ずつ梯型につらなって、私たちの頭上をひっきりなしに通過していった。一、二、三......と、五〇まで数えた。それは、文字通りうんかのような大群だった。編隊は黒煙の上辺をかすめ、キラキラと発光する雲母の粉のようなものをばらまき、機首を転じて南へ飛び去った。
夜になると、空は朱を塗ったように赤く不気味に燃えた。そして翌朝、誰からともなく、「横浜は全滅だ」といううわさがひろがった。B29が一〇〇〇機、いや二〇〇〇機で襲った。市の周辺から輪をちぢめるように焼夷弾をばらまき、一トン爆弾を投下した。逃げ場を失った市民は、みな殺しになった。海へ飛びこんだものも、水面に流れ出した重油に火がまわって一人のこらず焼け死んだ......。
二日後の五月三一日、救援物資をはこぶトラックに便乗を志願して、私は恐ろしいうわさを確かめに横浜にむかったのだ。
それは、生涯決して忘れることのできない、すさまじい光景だった。あの五月の午後、白日の下にひろがる地獄変相の絵巻を、私はいま、まざまざと記憶のスクリーンに写すことができる。
......まだ、あちこちで火を吹いている焼け野原のむこうに、海がみえた。青く光っていた。見わたすかぎり、巨大なローラーでならしたように、ぺちゃんこにひしゃげた瓦礫の堆積であった。ぶすぶすと余燼をあげる赤黒い焼土に、顔が煤でまっくろの男とも女ともつかない人間たちがさまよっていた。頭や腕から血を流し、血を流したまま立ちどまったり歩いたりしていた。
彼らは、もと自分の家があったはずの焼けあとで身寄りの屍を探しているのだった。死体はいたるところに、ごろごろ転がっていた。黒こげのサンマのように皮がむけて、橙々色の肉がはじけていた。手ぬぐいでマスクをした男たちがやってきて、死体を片づけはじめた。そばへ行ってみると、鳶口でひっかけて、トラックに積むのだ。二人がかりで、呼吸をあわせて、ぽいぼいとほうりあげていた。うつぶせになっている死体の中には、背部だけが焼け、腹側はそのままの無惨な姿があった。鳶口のねらいがそれて腹にうちこまれると、やぶれて、内臓がとびだした。たとえようもない悪臭が漂った。
胃の腑からつきあげてくる嘔吐に、私は耐えられなくなった。走っていって、瓦礫の間にしゃがんでへドを吐いた。涙とへドが、いっしょに堰をきってあふれた。泣きながら、ヘドを吐きながら、「死にたくない」と思った。強烈に思った。そのいっぼうで、この非道な殺戮に復讐しなければという血なまぐさい怒りがこみあげてきた。
五月二九日、アメリカ軍は、B29など六〇〇余機の編隊で、横浜市を無差別爆撃した。市街の多くを焼きはらい、一〇万人の市民を殺した。死者のほとんどは女であり子供であった。私はそのことを決して忘れない。
ライブの前、島本さん、岩田さんと蕎麦を食べに行ったのですが、歩くだけで汗がだらだら出てきます。暑い中お越しいただいた3人のお客さま、ありがとうございました。
8月20日の新宿・道楽亭(03-6457-8366)のペーソス・ライブにも出ますので、よろしくお願いします。(撮影・スマイリー井原)

いま読んでいる本『完本 美空ひばり』(竹中労・著 ちくま文庫)に、1945年5月29日、米軍による横浜空襲の箇所がありました。終戦79日前のことです。
これを読んで、涙が出ました。少々長いですけど、引用しておきます。
私(竹中)は、神奈川県大船の海軍第一燃料厰に一九四四年三月から学徒動員されて、「秋水」の燃料である過酸化水素の濃縮液をつくっていた。オキシフルを煮つめて九五パーセントの濃度にし、過マンガン酸加里と急激に化合させる。その爆発で、一気に一万五〇〇〇メートル上昇して敵に体当たりするのである。海軍最後の戦闘機「秋 水」は、いわば人間を乗せたロケット弾であった。
濃縮したオキシフルは、ほんの表を木片にたらしても、めらめらと燃え上がるのだった。オキシフルの蒸気で、髪の毛は脱毛し赤茶けた。スフ(*人絹)の作業服は、一月ともたなかった。仕事はつらく、みじめで、食事も満足にあたえられなかった。二切れか三切れの芋と野草の塩汁が何カ月もつづいた。
当時、数えで一六歳の少年だった私は、音速よりも速く飛ぶという「秋水」に搭乗する、特攻隊員の心情を想った(きっと敵にぶつかる前に失神してしまうにちがいない)。それは、この世でもっとも壮絶な、そして安楽な死であるように思えた。くる日もくる日も、私は"死"ばかりを考えていたのだ。
一九四五年五月二九日、「おおいッ、すごいぞ、見てみろ」という叫びにつられて、私は工場の裏山にかけ上がった。東の空にいちめんの黒煙が、巨大な渦をまいていた。
それは、とほうもないひろがりで視界をおおい、無数の火花をまじえて、ごうごうとうなりを立ていた。B29爆撃機の編隊が七機ずつ梯型につらなって、私たちの頭上をひっきりなしに通過していった。一、二、三......と、五〇まで数えた。それは、文字通りうんかのような大群だった。編隊は黒煙の上辺をかすめ、キラキラと発光する雲母の粉のようなものをばらまき、機首を転じて南へ飛び去った。
夜になると、空は朱を塗ったように赤く不気味に燃えた。そして翌朝、誰からともなく、「横浜は全滅だ」といううわさがひろがった。B29が一〇〇〇機、いや二〇〇〇機で襲った。市の周辺から輪をちぢめるように焼夷弾をばらまき、一トン爆弾を投下した。逃げ場を失った市民は、みな殺しになった。海へ飛びこんだものも、水面に流れ出した重油に火がまわって一人のこらず焼け死んだ......。
二日後の五月三一日、救援物資をはこぶトラックに便乗を志願して、私は恐ろしいうわさを確かめに横浜にむかったのだ。
それは、生涯決して忘れることのできない、すさまじい光景だった。あの五月の午後、白日の下にひろがる地獄変相の絵巻を、私はいま、まざまざと記憶のスクリーンに写すことができる。
......まだ、あちこちで火を吹いている焼け野原のむこうに、海がみえた。青く光っていた。見わたすかぎり、巨大なローラーでならしたように、ぺちゃんこにひしゃげた瓦礫の堆積であった。ぶすぶすと余燼をあげる赤黒い焼土に、顔が煤でまっくろの男とも女ともつかない人間たちがさまよっていた。頭や腕から血を流し、血を流したまま立ちどまったり歩いたりしていた。
彼らは、もと自分の家があったはずの焼けあとで身寄りの屍を探しているのだった。死体はいたるところに、ごろごろ転がっていた。黒こげのサンマのように皮がむけて、橙々色の肉がはじけていた。手ぬぐいでマスクをした男たちがやってきて、死体を片づけはじめた。そばへ行ってみると、鳶口でひっかけて、トラックに積むのだ。二人がかりで、呼吸をあわせて、ぽいぼいとほうりあげていた。うつぶせになっている死体の中には、背部だけが焼け、腹側はそのままの無惨な姿があった。鳶口のねらいがそれて腹にうちこまれると、やぶれて、内臓がとびだした。たとえようもない悪臭が漂った。
胃の腑からつきあげてくる嘔吐に、私は耐えられなくなった。走っていって、瓦礫の間にしゃがんでへドを吐いた。涙とへドが、いっしょに堰をきってあふれた。泣きながら、ヘドを吐きながら、「死にたくない」と思った。強烈に思った。そのいっぼうで、この非道な殺戮に復讐しなければという血なまぐさい怒りがこみあげてきた。
五月二九日、アメリカ軍は、B29など六〇〇余機の編隊で、横浜市を無差別爆撃した。市街の多くを焼きはらい、一〇万人の市民を殺した。死者のほとんどは女であり子供であった。私はそのことを決して忘れない。

